坂道とクレーンの街、
その路地で出会った人々。
植物がツタを伸ばすように、山々に向けて増殖する家々、闊歩する巨大な生き物のような造船所のクレーンたち。そしてそのわずかな隙間に暮らす人々。軍港として、造船の街として日本列島の西端に隠されるように発展してきた街、佐世保。サセボプロジェクト第一弾のタブロイド型写真集。
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Story
振り返る街並み
松尾修
九州の西端、西側を海にその他の三方を山に囲われた土地に僕が生まれた街、佐世保はある。小さな漁村に過ぎなかった佐世保は、その位置と地勢的な条件から明治時代に軍港として見いだされ、戦後も在日米軍と自衛隊が常駐する国防の街、佐世保重工業を中心とした造船の街として発展を遂げてきた。日本でも比較的新しい街と言っていいのではないかと思う。
佐世保の中心地に入ると、密集して斜面にへばりつくように建つ家々がまず目に入る。小高い場所から見れば一目瞭然だが、市内に数少ない平たい土地は在日米軍や海上自衛隊等の港湾関係の施設と、佐世保の人々が「街」と呼ぶ繁華街に埋められてしまっている。自ずと一般の住宅は、三方の斜面に植物がツタを延ばすように増殖していくしかないのである。
僕が育った家も、平地から10分ほど上った崖のような斜面に建っていた。土地は100坪ほどもあったけれども自家用車を停める駐車場もない、我が家が建つ場所までは階段でアクセスするため、車は入れないのである。今でも多くの住宅街は、狭い階段や路地で「上の道路」や「下の道路」と繋がっている。
その階段や路地と、わずかな空き地が幼少時の僕たちの遊び場だったのだが、小学校も高学年になってくると行動範囲は平地にある「街」へと広がっていった。子どもならではの恐れを知らぬスピードで、狭い路地や階段を平地に向かって駆け下りた。ジェットコースターや市街地レースのフォーミュラーカーの気分である。「街」で友人たちと落ち合うと、繁華街や米軍施設、埠頭にある砂山などで様々な冒険を繰り返した。
夕暮れ時になると家へ帰るために再び坂道を戻らなければならないのだが、出かける時は数分で駆け下りた道も、名残惜しさも相まって帰りの道行きは30分ほどかけてゆっくりゆっくり登った。友人と愚にもつかない話をしながら、のらりくらりと登って行くのだが、たまに足を止めて振り返ると、そこには夕焼けで赤茶色に染まった佐世保の街が広がっていた。繁華街も見える、米軍のグレーの船も見える。湖のように穏やかな佐世保湾も見える、平地を挟んだ向こう側の斜面も見える。あっちの斜面にも同じように家路につく人たちがいて、坂を登る足を休めて、同じように佐世保の街を眺めていたのだろうか。
18歳で佐世保を離れるまで、この道程は幾度となく繰り返された。中学、高校、友人の家、行き先が変われば登るべき坂道も変わる。いろんな坂道を下りたり登ったり、その都度小高い斜面から眺める佐世保の姿は同じようで少しづつ違う。そうやって繰り返し眺めた風景が、僕のみならず佐世保の人たち皆が持っている、郷土愛と呼ぶには一種異様なわが街に対する執着に繋がっているのかもしれない。